ようこそ北原荘へ3

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 つたない足取りで楓が帰宅したのは、もう辺りが暗くなった頃だった。
放課後の部活の稽古も身が入らず、部長や顧問に叱られっぱなしだったのである。
「ただいまぁ・・・」
古びれた北原荘の扉が開く。
いい加減に交換しないと近所迷惑も甚だしい音をたてるが、
今はそんな事はどうでもいい、なんだかもうクタクタなのである。
「あ〜、お帰りなさ〜い、お姉ちゃ〜ん」
食事当番でエプロン姿の梢が、平和そうな顔で出迎えてくれた。

今日は梢の呑気な顔が、なんだか慰めてくれている様な気がしてホッとする。
と、思ったのも束の間、梢が切り出した。
「あ、そうそう、みんなお姉ちゃんを待ってたんだよ」
「え?何で?今日何か有ったっけ?」
別に予定は無い筈だ。
「ヤだなぁ〜、檜お兄ちゃんの歓迎会だよ〜、だからいぶきお姉ちゃんも
今日は会社を早く切り上げて、帰ってきてくれてるんだよ〜」
「え・・・」
楓は言葉を詰まらせた。
今は早苗の事も有って、正直檜とは顔を合わせづらい。
檜本人との間に何か有った訳ではないが、きっと今は顔すらまともに見れない気がする。
「・・・・」
「どうしたの?お姉ちゃん?」
「私・・・ちょっと顔出せないから・・・みんなでやってて」
「え?ちょ、ちょっと、お姉ちゃん!」
「ゴメン、梢」
そう言うと楓は階段を駆け上がって行った。

 『バタン!』
部屋に入ると楓は机に突っ伏して、大きな溜め息をついた。
このアパートで檜と再会した朝のトキメキはどこへやら、なんとも憂鬱な気分だ。
4年間会っていなかったとはいえ、ずっと一緒だった幼馴染の大好きな檜。
漠然とではあるが、自分と彼の間は何か特別な物と思っていた。
他人が入り込む余地は無いと思っていたが、それは大間違いだった。
まさか親友の早苗が、檜に一目惚れするとは思わなかった。
確かに、楓と檜は他の人よりもお互いの事を良く知っている仲ではあるが、
まだ恋人同士という訳ではないのだ。
「はぁ〜〜〜、もぅ・・・私何やってんだろ・・・、イジイジするのが一番嫌いなのに・・・」
そうは言っても、今から下の食堂に降りていくのもなんだか気まずくて出来ない。
「う〜〜〜」
情けなくなって来て涙がにじみ始めた時に、部屋をノックする音が聞こえた。
「楓ちゃ〜ん?どぉしたの?具合でも悪いの〜?そうじゃなかったら早く降りてらっしゃいよ〜」
「・・・いぶきさん・・・」
「入るわよ〜?」
「あ・・ちょ、ちょっと今は・・・」
言い終わる前にいぶきが入ってきた。
「も〜、電気もつけないで〜」
『ぱちん』
部屋の電気を付ける音がした。
「あ・・・」
楓といぶきの目が合った。
楓の目は真っ赤になって、涙が溢れていた。
いつもは明るくて、元気で、竹を割った様な性格の楓。
いぶきは楓と出会ってから、もう随分時間が経つが、泣いている楓は初めて見た。
「か・楓ちゃん・・・・」
「な・・・何でも無いの、気にしないでいぶきさん」
「気にしないでって・・・楓ちゃん」
「ん〜ん、ホントだよ、ホントになんでも無いんだから・・・ハ、ハハハ」
いぶきはそんな楓をじっと見つめていた。
「楓ちゃん・・・・檜さんの事?」
ガーン!!な、何でソレを!?楓は慌てた。
「い、い、い、いぶきさ・・・ち、ち、ち違う!一体ナニ言って・・・!」
「ふふ〜ん、やっぱりね」
いぶきが悪戯っぽく笑った。
「そ〜ゆ〜事なら、ほら!行くわよ!」
そう言うといぶきは楓の背中を押して部屋を出て行った。

 結局楓は、いぶきに背中を押される格好でトボトボと下の食堂に降りていく羽目になった。
「ほーら、シャンとしなさい!シャンと!楓ちゃんらしくないわよ!」
そう言いながらいぶきは楓の背中をポンポンっと叩く。
しかし、当の楓はそれどころではなく、今スグにもここから逃げ出したい気持ちで一杯だった。
階段を降りて廊下奥の左側、いつもの食堂に向かう足が重い。
キツイ部活の稽古のせいではなく、彼女の気持ちの重さがそうさせていた。
あと5m。あそこに入ったらイヤでも檜と顔を合わせなくちゃいけない。
歓迎会だっていうのに、どんな顔をすればいいんだろう?
とてもじゃないけど、今檜兄ちゃんの顔を見て笑顔を作れる自信がないよ。
そんな事を考えているうちに食堂の前に着いてしまった。
「ガラガラ!!」
楓が食堂の入り口の前に着いた途端、引き戸が勢い良く開いた。
檜がなかなか降りてこない楓を心配して出てきたのだ。
「!!」
まだ心の準備が出来ていなかった楓は思わず固まってしまった。
「楓、体調でも悪いのか?」
「う・・・・ううん・・・・、だ、大丈夫だよ」
ひきつりながら楓が答えた。
「熱は・・・・うーん、無いみたいだな」
檜は楓のおでこを触りながらそう言った。
バクン、バクン、バクン!!
楓の心臓が物凄い勢いで走り出した。

心配そうに熱を計ってくれている檜を間近で見ていると、ドキドキしてたまらない。
今迄はこんな事無かったのに。
「いや、ホ、ホントに大丈夫だから。ありがとう」
楓は檜から身をかわした。
「檜兄ちゃん、ホントにゴメンね。せっかくの歓迎会なのに」
そう言うと楓はダッと駆け出し、階段を上って行ってしまった。

 屋根の上に有る物干し場から、屋根伝いに反対側に行くと北原荘一の見晴らしのいい場所がある。
小高い丘陵地の頂上に有る北原荘からは、町が一望できるのだ。
楓はココが好きで、落ち込んだ時などには良くここから夜空を眺めたりしていたものだ。
今日も思わずこの場所に走り込んでいた。
早苗の事、檜の事、頭を冷やして考えたかったのだ。
早苗は性格が明るくて面倒見の良い、中学の頃からの大親友である。
ルックスだって悪くない。いや、むしろ美少女の部類に入るだろう。
あんな娘に好かれたら、嬉しくない男性はいないと思う。
私だって、早苗なら絶対の自信を持って薦められる。
だけど・・・・。
早苗の好きな相手が檜だという現実が、楓の表情を曇らせる。
その時、背後から人影が現れた。
「よっ!!」
檜だ。この場所は檜とも小さい時から良く登ってきていた。
楓の様子がおかしいのを見て、きっとここに来ていると思い彼もやって来たのだ。
「ほら、楓」
檜は缶ジュースを手渡してくれた。
「ここに登れるって事は、体調は大丈夫・・・だよな?」
「うん・・・ありがとう」
素直にジュースを受け取ると、檜はニッコリ笑って彼の分の缶ビールを開けた。
「小っちゃい時もよくココに登ってたよなー」
「そうね」
「楓、覚えてるか?おまえ一度大はしゃぎして屋根から落ちそうになっただろ?」
「あー!!うんうん!檜兄ちゃんに助けて貰ったよね」
「あん時ゃ、北原のじぃさんにシコタマ叱られたっけなぁー。もう2度と登るんじゃないぞってさー」
「そうそう、でも内緒で良く登ってたよねー、にいちゃんと二人で」
「あの頃からおまえホンットにおてんばだったよなぁ」
「あの頃から、ってナニよぉー。今もおてんばだっていうの?」
「わははは!おしとやかな娘ならフルコンタクト空手の黒帯なんか持ってないと思うぞ」
「あはは、そう言われればそうねー」
「・・・・・」
「ん?どうしたの?檜兄ちゃん」
「やっぱり楓は笑ってる方がいいな」
「あ・・・、う、うん」
その返事を聞いた檜は、二カッと笑ってビールを飲み干した。
「悩みが有ったら何でも言ってこいよ、楓。ウジウジしてるのは楓らしくないぞ」
「う・・うん。ありがと」
『でも・・・その悩みの原因は貴方なんだけどなぁ・・・』
楓はそっとつぶやいた。